観音寺城 wikipedia|無料辞書
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remains = 本丸、二の丸、曲輪、土塁、石垣、堀、門跡等多数|
rebuilding things = なし|
location = |
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◆ 概要
標高432.9メートル、南北に伸びる繖(きぬがさ)山の山上に築かれる。南腹の斜面に
曲輪を展開、家臣や
国人領主の屋敷を配した。総
石垣で、
安土城以前の中世城郭においては特異な点とされる。天文年間には
城下町・石寺も置かれ、
楽市が行われていた。周辺は
琵琶湖や大中の湖、美濃から
京都へ至る
東山道、長光寺集落から伊勢へ抜ける
八風街道があり、それらを管制できる要衝に位置する。
◆歴史・沿革
正確な築城年代は定かではないが、古典『
太平記』には、
南北朝時代のに、南朝(
吉野朝廷)側の
北畠顕家軍に備えて
六角氏頼が篭もったという記述があり、そのころには築かれていたと考えられている。ただ、この時はまだ
観音正寺を臨戦用の砦として活用していたのではないかと考えられている。
◇ 応仁の乱
室町時代の
応仁の乱では、六角氏が西軍に属したため同族の
京極持清に攻められている。六角氏は同族で東西に分かれ戦っていたのである。応仁の乱では3度、観音寺城の
攻城戦が展開される。
第一次観音寺城の戦い
4月1日
|place= 観音寺城一帯
|combatant1= 京極持清軍
京極勝秀軍
|commander1= 京極勝秀
|commander2= 伊庭行隆
|strength1= 不明
|strength2= 不明
|casualties1 = 不明
|casualties2 = 観音寺城は開城
|campaign =
| -->
東軍
細川家に属していた京極持清の子、京極勝秀は六角高頼の居城観音寺城を攻撃した。
城主六角高頼、陣代
山内政綱らは京都におり東西の戦闘に参加していたので、観音寺城の留守居役の伊庭行隆が迎え出た。
数日間攻防戦が続いたが、伊庭行隆は敗れ、4月1日城を明け渡した。
第二次観音寺城の戦い
11月8日
|place= 観音寺城一帯
|combatant1= 六角政暁軍
京極持清軍
|combatant2= 六角高頼軍
|commander1= 六角政暁
京極持清
|commander2= 山内政綱
|strength1= 不明
|strength2= 不明
|casualties1 = 不明
|casualties2 = 観音寺城は開城
|campaign =
| -->
11月初め、陣代山内政綱がようやく京より帰国し観音寺城の防備を固めた。
弓削の戦いで六角高頼に敗れた、六角政暁と京極持清の連合軍は雪辱を果たすべく、第一次観音寺城の戦いに続き戦闘準備を整えた。
同年11月8日、六角・京極連合軍は観音寺城を攻め落とすべく攻撃を開始。
山内政綱は防戦したが、守り切ることができず、火を放ち敗走し、六角高頼方の
武将23人が六角・京極連合軍に寝返ったと『碧山目録』に記載されている。
第三次観音寺城の戦い