香川県三豊郡和田村(現
観音寺市)の農家大平利吉・サクの三男として生まれる。兄2人、姉3人、弟妹がそれぞれ1人ずつの6人兄弟であったが、正芳が生まれた時長女は満1歳で、兄の1人も2歳半で既に亡くなっていた。
[福永文夫『大平正芳』(中央公論新社,2001年)15頁。]。父利吉は学歴こそ無かったものの村会議員や水利組合の総代を務めていた。また利吉は書をたしなみ,和漢の古典にもよく通じた読書家で正芳の読書好き漢籍への造詣は父の影響を強く受けていた。大平は「讃岐の貧農の倅」と称したが生家は中流に属していた。それでも子供6人を抱えた大平家の生活は苦しいもので、正芳も幼い頃から内職を手伝うなどして家計を支えていた
[『大平正芳』 16-17頁。]。
和田村立大正尋常高等小学校(現観音寺市立豊浜小学校)、旧制三豊中学校(現
香川県立観音寺第一高等学校)に進んだ。当時、中学校に進学する者は学級で2、3人程度で、次男・三男には分けてやるものはないからせめて学業くらいは修めさせてやろうという利吉の気遣いからであった。兄の
大平数光は高等小学校を卒業して家業を継ぎ、後に豊浜町長となって大平の地元での選挙活動を支援した。中学時代の大平は温厚で目立たない少年で、級友たちは後に政治家になった大平には当惑したという
[『大平正芳』 19-20頁。]。
1926年、三豊中4年の時大平は
腸チフスに罹り4ヶ月間生死の境をさまよった。家計に負担をかけないため
海軍兵学校を受験したが、受験前に急性中耳炎を患い身体検査で不合格となった。
1927年夏、父利吉が急死する。翌
1928年4月、経済的に恵まれなかったものの親戚からの援助や奨学金を得て
高松高等商業学校(現
香川大学経済学部)に進学。
[『大平正芳』 24頁。]。高商に入学した春、元
東北帝国大学教授で宗教家の
佐藤定吉が講演に訪れた際キリスト教に出会った。自身の病や父の死を立て続けに経験した大平はキリスト教に傾倒し、
1929年暮れに観音寺教会で洗礼を受けた
[『大平正芳』 25-26頁。]。卒業後の進路について大平は大学への進学を希望したものの経済的に厳しく断念せざるを得なかった。母は四国水力(現
四国電力)への就職を望んでいたようであるが
昭和恐慌の煽りを受け採用自体が無かったため進学も就職も決まらない状態にあったところ、桃谷勘三郎の食客となり
桃谷順天館で化粧品業に携わった。大平は信仰の師である佐藤の発明した薬品を商品化するとのことで桃谷の誘いを受け大阪に出てきたものの、一向に商品化される様子はなく自身の生き方について葛藤する日々を過ごした
[『大平正芳』 27-28頁。]。
1933年、再び学業に戻ることを決意した大平は
坂出市の鎌田共済会と香川県育英会の2つの奨学金を得て
東京商科大学(現
一橋大学)に進学した
[『大平正芳』 27頁。]。大平23歳の時のことである。
文京区千駄木に居を構える。在学中大平は経済哲学の
杉村広蔵助教授、法律思想史の
牧野英一教授らの講義を手当たり次第に履修した
[『大平正芳』 28頁。]。なかでも経済思想史に強い関心をもった大平は2年に進級すると
上田辰之助ゼミナールに参加した。恩師上田について大平は「経済学者というよりも、むしろ社会学者であり、社会学者である前に実のところ言語学者であられた」と評している
[『大平正芳』 29頁。]。卒業論文は「職分社会と同業組合」
[『大平正芳』 30頁。]。また、大平は「わたしの思想というものが仮にあるとすれば(杉村先生の思想が)それをつくるものの考え方の素材となっている」と述べ
[『大平正芳』 29頁、『在素知贅・大平正芳発言集』(大平正芳記念財団,1996年)]、杉村の著書『経済倫理の構造』(
岩波書店,
1938年)は亡くなる直前まで大平の傍らに置かれていた。
[『大平正芳』 29頁。]大学在学中も引き続きキリスト教の活動にも精力的に参加し、
YMCA活動に従事した
[『大平正芳』 28頁。]。