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「中島治康」||派遣JOB-LINK.com [05/25update]

中島治康 wikipedia|無料辞書

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|身長 = 175
|体重 = 73
|利き腕 = 右
|打席 = 右
|守備位置 = 右翼手
|プロ入り年度 = 1934年
|ドラフト順位 =
|初出場 = 1936年
|最終出場 = 1951年
|経歴 =
松本商業学校(旧制)
早稲田大学(旧制)
藤倉電線野球部
東京巨人軍
読売ジャイアンツ
(1934 - 1943, 1946 - 1949)
大洋ホエールズ(1950 - 1951)
|経歴補足題 = 監督歴
|経歴補足 =
・ 東京巨人軍
読売ジャイアンツ(1943, 1946 - 1947)
・ 大洋ホエールズ(1951)

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|選出国 = 日本
|選出年 = 1963年
|得票率 =
|選出方法 = 競技者表彰
-->
中島 治康(なかじま はるやす、1909年6月28日 - 1987年4月21日)は、日本長野県松本市出身のプロ野球選手(外野手)・監督

◆来歴・人物
旧制松本商業(現松商学園高)でエースとして鳴らし、1928年夏の甲子園で優勝した。これは現在に至るまで長野県勢唯一の夏の優勝である。早稲田大学に進んで野手に転向、藤倉電線を経て1934年大日本東京野球倶楽部に入団。
1936年のリーグ戦開始時から巨人でプレーし、強打・強肩の外野手として活躍。1938年秋季には打率.361、本塁打10、打点38で史上初の三冠王となった。当時三冠王という概念はなく、戦後になって初めて認定された(1938年は春秋通算でも三冠王)。1943年監督兼任1944年応召。1946年シーズン途中に兼任監督として復帰。翌年は開幕からチームが不調で、29試合を消化した時点で監督職を辞した。
1950年大洋ホエールズに移籍。1951年に兼任監督となったが、またも結果が出ず途中交代となった。同年引退した。中島曰く「人として許し難いことがあった」とここでプロ野球とは一線を引き、読売新聞客員、東京六大学野球連盟理事を務める。
類い希なパワーと悪球打ちで、ワンバウンドした投球をスタンドに打ち込み本塁打にしたという伝説が残っている(本人も否定しており、実際はセンター前ヒットであったと言う)。守ってはその強肩で、ライトゴロを何度か成功させるなどチームのピンチを幾度となく救った(中尾輝三ノーヒットノーラン達成につながったものもある - 『巨人軍5000勝の記憶』p.17)。軍での実績に因み、チームメイトからは「班長」と呼ばれ慕われた。
1963年野球殿堂入り。川上派と長嶋派の対立が激化した1980年代前半、川上・長嶋両者を凌ぐ存在が必要と考えた千葉茂はプロ野球界から離れていた中島を巨人軍OB会長に据えた。会長職は1982年から1984年まで務めた。1987年4月21日死去。77歳没。

◇ 参考文献

◆ 年度別打撃成績